「摩訶迦旃延 (まかかせんねん)」
パーリ語でマハーカッチャーナ(mahaakaccaana)。 尊称して摩訶・迦旃延という。 好肩、文飾等と訳される。
迦旃延の名は、婆羅門種の十姓の一つで、姓を以って名としている。
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論議第一と称され、辺境の地の布教に大きな功績を残した。 |
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彼の出身や身辺には諸説あるが一般的には次の2つがある。
1つは西インドのアヴァンティー国、ウッジェニー(現ウッジャイン)の婆羅門出身(クシャトリヤ説あり)で、
チャンダパッジョータ王の帝師の子で、王の命により釈迦仏を招くために、7名の王臣と共に仏所に赴き出家した。
2つ目の説は南インドの婆羅門出身で、当初は阿私陀仙人の弟子となり、その師の娘を娶り、また師の遺命により仏弟子となった。(*阿私陀(アシタ)仙人とは
“釈迦が将来、仏となる”と予言した仙人といわれている) |
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迦旃延は子供の頃より聡明で、一度聞いた内容は忘れず良く理解したと言われる。それでも難解で理解できないことがあり、釈迦に教えを請うことになり、これがきっかけで弟子となったとされる。
釈迦の弟子となった後も、仏の教えを広く解りやすく、義を分別して広説し、釈迦仏から讃嘆された。
幾人かの王に四姓(バラモン、クシャトリア、ヴァイシャ、スードラ)の平等を説いて回ったといい、南方所伝の仏教でも釈迦滅後も弘教に努めたといわれる。
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